角が取れると球体になる
最近、SNSなんかを見ていると
どうやら気軽に私見を話すのは批判されそう
文献など、歴とした「ソース」がないと
ソースは何?と言われてしまうらしい
そんな様子を見ていると
なかなかどうして、自分の私見を話すのが
いつも以上にこわくなる。ならない人ももちろんいると思うけど
そこまで胆力がないので、いつもこういう表現をつかう。
「諸説あるらしい。」
「俺、これこれこう思うんだよね~~諸説あるらしいけど」
この言葉はすごく便利でいつも、似たような言葉を使って話していた。
この諸説ある。という言葉はやっぱり便利だけど
最近この言葉は麻薬に似ているとも思う。
諸説ある。という言葉はしばしば
・これは一つの言い伝えに限定する訳ではなく、
他の言い伝えもありますので、ご了承ください。
・自分の意見は一意見として、
まあ他の考え方もあるということは 理解した上で話している
こんくらいの意味で用いられていることが多いと思う。
前者はテレビでよく使われる意味
後者は自分がよく使う意味
これが麻薬のように使いやすくて
自分の意見を責任を持たずに話せるから気持ちが良い。
責任をもたずに好きなことを誰かのせいにしながら言える。
でもやっぱり麻薬といったからには副作用、禁断症状がある。
人として空っぽ、がらんどうになる。
特に責任ももたないから、失敗したとも成功したとも思わない
誰かに正面からぶつかって、否定されて、考えを改める、修正する
みたいなプロセスが生まれなくなる。
だから、誰かの言葉を借りて話すか
もしくは誰にも否定されないようなあたりさわりのない正論しか
残されなくなる。
誰にも嫌われることもないかもしれないけど、
誰にも好かれなくなる。
痛みはないけど喜びも特になくなる。
こんなのって、中学生の頃に卒業したはずなのに
形や話題はは変わっても死ぬまでやり続けるのだろうか….